ミツワヒストリア

新潟から17歳で上京

当社の創業者であり、初代社長であった堀井章一は、1888年(明治21年)4月17日、新潟県古志郡上組村前島252(現在の長岡市)にて誕生している。生家である堀井家は、村を代表する地主であった。男兄弟が数人おり、兄は地元から推されて衆議院議員に立候補し当選。弟は新潟を代表する地酒の蔵元の社長となっている。

1902年、地元の尋常小学校を卒業し、17歳で上京。最初は馬喰横山町の化粧品問屋に奉公した。

当時、国民皆兵の徴兵制度により兵役義務があった。これを受けるために郷里に帰ったが、目が悪かったため不採用となっている。兵役は諦めて、産業を興し国家に奉仕することを決断し、再び上京。そこで、仲間と語り合って、将来性十分と見極めて創業したのが電気製品の卸業務であった。

章一は1910年(明治43年)に当時の東京市浅草区福井町(現在のJR浅草橋駅前)にミツワ電機商会を創業した。22歳のことである。

当初、浅草橋にお店を構えたものの、ほとんどの販路は地方にあった。章一の故郷である新潟をはじめ、関東、東海道、東北などへ社長自ら出向いていき、外交販売を行っていた。地方のお客様からは、商品の注文を取り次ぐだけではなく、業界や商品の最新情報を提供する章一の仕事ぶりは好評で、売上は確実に上がっていった。メーカーとお客様との間を情報でつなぐ姿勢は、今日の当社にも脈々と受け継がれている。

その後、当社は大正に入り電球、懐中電灯、乾電池、練物ソケット、電話機や電線などの工事材料の販売で順調に業績を伸ばしていき、1918年(大正7年)には配線器具のメーカーである神保製作所(現:神保電器株式会社)や白熱球のメーカーであった東京電気(現:東芝ライテック株式会社)とも取引を開始している。

創業10周年を迎えた1920年(大正9年)には、松下電気器具製作所(現:パナソニック株式会社)との取引を開始している。販路拡大の為に、当社を訪ねられた松下幸之助氏から二股ソケットやアタッチメントプラグの商品説明を受け、商品を手に取ったところ品質の高さや値段も安いことから、すぐに売れると見抜き取引を開始することになった。東北から北海道まで東日本全域に松下製品を販売することになったのである。

1923年(大正12年)には関東大震災で店舗を焼失し、倉庫の在庫も完全に失ってしまったが、幸いにも家族や従業員に死傷者が出なかった為、仕入先やお客様からの支援もえながらいち早く営業を開始することができ、地方に主体を置いていた販路を、東京市にも販路を拡大するきっかけとなり、当社は業績を飛躍的に伸ばしていったのである。

 ▲  初代社長 堀井章一

初代社長 堀井章一を支えた妻すずの存在

1914年(大正3年)、薦める人があって、章一は白石すずと結婚し夫婦となった。創業4年目、ちょうど仕事が波に乗りだした頃であった。夫の章一は地方出張が多く、月のほとんどはすずが会社の留守を預かることになった。

このすずが優秀な人間で、章一の留守を全うした。若い奉公人の面倒は見るし、5珠のそろばんを操って、経理業務も見た。達筆で、会社に寄せられた手紙の返事はすずの担当であった。来客の対応もするし、ときには奉公人にまじって大八車を押すこともあった。子どもが生まれてからは、子育てのかたわら会社の業務を見ていた。それでいて、決して出しゃばることのない明治生まれの女性であった。

すずは、1890年(明治23年)3月6日、愛知県豊橋市の素封家の家に生まれている。女学校を出てから上京し、当時の鉄道省に勤めている。今でいうキャリアウーマンのはしりであった。

すずを知っている人が皆、一様に口にするのが「頭のいい人であった」「聡明な女性であった」ということである。出会う人を魅了せずにはいられない話術と笑顔、そして気配りを持っていた。章一自身、「あんないい嫁が、よくもうちに来てくれたものだ」と社員の前でさえ語っていたほどである。創業者の妻すずが当社に残した功績は極めて大きかった。

初代社長夫人 堀井すず

 ▲  初代社長夫人 堀井すず

「ミツワ」の意味

当社はミツワ電機商会として創業し、1939年(昭和14年)に株式会社組織に改組。1960年に創業50周年を迎え商号を「ミツワ電機株式会社」に変更している。一貫して使用しているのが「ミツワ」である。

この「ミツワ」には、3人の仲間で創業したため、「3人の和」という意味が込められている。3人が協力して、和をもって拡大していこうということなのである。

日本人は「和」を重んじており、ほかにも似たような名前は多くある。だが「このカタカナを会社名にしたことが、実に時代を先取りしている」と、2代目社長堀井秀雄が評している。「明治の時代にカタカナのネーミングは燦然と輝いており、ミツワ電機の一つの誇りであり、プライドでもある」と語っている。

あるいは三つの和とは、流通を担う商社として、商品を作るメーカーと、それを使用するお客様、そして当社の三つの和を重視したのかもしれない。さらには、商いの道は「売り手よし、買い手よし、世間よしという三方よしの理念が大切」ともいわれる。

いずれにせよ、当社は和を重んじ、うちにおいても家族的な経営を続けてきた。全社員を家族のように大切にする心は、当社の文化であり、伝統でもある。これを創業時から100年間続けてきているのである。


学校法人堀井学園を創立

章一は根っからの商人であった。商売そのものが何よりも好きであったし、楽しんで仕事をしていた。お客様のニーズを機敏に察しては、提供することを何よりの喜びとしていた。

努力家の上にセンスも良く、章一が打つ手で外れることがなかった。従業員一同、章一の指示に安心して従うことができた。

それだけあって、事業も伸びて章一自身の財産も増えていった。多額納税者議員の候補者になっていたほどである。

戦前の帝国議会が衆議院と貴族院の2院制であったことを知っている人は多いであろう。衆議院は今と同様選挙で公選されるが、貴族院は皇族と勅任の議員で構成されていた。

この勅任議員の中に「多額納税者議員」があった。文字どおり多額な納税者の中から互選で選ばれる議員である。府県ごとに直接国税納付者15名から1名が互選されていたが、章一はその15名の中に名前を連ねていたのである。このことからも、いかに多額の収入があったかを理解できるであろう。

しかし、一方的に蓄財に走る守銭奴ではなかった。とりわけ、戦争が深刻化するにつれ社会事業への思いが募り、その一つとして私財をなげうって、学校法人堀井学園を創立しているのである。

横浜創英中学・高等学校の校舎(写真提供:堀井学園)

 ▲  横浜創英中学・高等学校の校舎(写真提供:堀井学園)

校庭に建てられた堀井章一理事長夫妻の銅像と記念碑

 ▲  校庭に建てられた堀井章一理事長夫妻の銅像と記念碑