ミツワヒストリア

2代目社長堀井秀雄の就任

終戦間際の1946年(昭和21年)に、創業者である堀井章一が病で倒れ長い療養生活を強いられることになった為、1947年(昭和22年)に長男の堀井秀雄はそれまで勤めていた住友本社を退職し、跡継ぎとして当社に入社することになった。28歳の時である。

翌年の1948年(昭和23年)には、初代堀井章一の還暦の祝いと創業40周年祝賀会、堀井秀雄2代目社長の社長就任披露を記念してパーティーを開催している。 

創業40周年祝賀会、2代目社長就任披露

    創業40周年祝賀会、2代目社長就任披露

松下電工セールスコンテストにて全国第一位

日本経済の発展と共に当社も業績を伸ばしていくなか、秀雄は社員数が充実してくると松下との商売の再開を考えるようになる。

昭和10年代当時、当社の社員が人手不足(徴兵や軍需工場の徴用)により、地方の商売まで手が回らなくなった為、松下商品は松下社員がお客様へ商売をするようになり、当社の販売ルートは一時消失してしまっていた。

当時社長であった松下幸之助氏が上京する度にお会いして「何とかミツワ電機が松下の商品を拡売した功績を認めて欲しい。そして何がしかの手を打っていただきたい」と何度も交渉することになる。

これに対し「時代が変わってしまったので、今さらかつてミツワ電機が売っていたお店だからといって戻すわけにはいかない。だがミツワ電機には特別の配慮をしよう」との返事をもらう。これが具体的な形となって現れたのが松下電工(現:パナソニック株式会社 エレクトリックワークス社)との取引であった。

松下電工(現:パナソニック株式会社 エレクトリックワークス社)は松下電器産業(現:パナソニック株式会社)の兄弟会社であった。当社は、松下幸之助氏より、「電工をミツワの力で育ててやってくれないか」と依頼され、会社を挙げて拡販に努めた。

結果、1958年(昭和33年)の全国的なセールスコンテストでは見事全国1位を獲得した。この栄誉はこの後8年続き、その後も継続的に第1位の栄冠を獲得し続けている。このコンテストは現在も「パナソニック株式会社 エレクトリックワークス社全国有力電材代理店様コンテスト」として実施されている。

このように、当社と松下電工(現:パナソニック株式会社 エレクトリックワークス社)とは親密な間柄であるが、松下の創業50周年記念式典の中で電工の電材代理店行事に秀雄が招待された時、数百名の参列者を前にして、松下幸之助会長がその挨拶の中で、当社の先代堀井章一との関係に話をふれられたことは極めて感慨深いものがあったと述べている。


松下幸之助氏(左)と堀井秀雄

    松下幸之助氏(左)と堀井秀雄

藍綬褒章の受賞

日本には勲章・褒章制度があり、秀雄が受けたのは「褒章」の中の「藍綬褒章」である。

多少説明を加えると、「勲章」は長年にわたって国家または公共のために功労のあった者を対象に授与するもので、菊花章、旭日章、宝冠章、瑞宝章など22種類がある。文化勲章もこの一つで、これは日本の文化の発達に大きな功績のあった人に授与される。天皇陛下の園遊会に招かれ、マスコミの話題となるのはこちらである。

一方、「褒章」は6種類あり、自己の危難を顧みず人命救助した人、社会奉仕活動に尽くした個人、その道一筋の業務に精励し衆民の模範となった人、学術・芸術・技術開発等の功労者、教育・医療・社会福祉・産業振興等の分野で活躍した人などに授与されている。

双方とも性格が似て区別が難しいが、両方を受章することもあるようだ。

秀雄の受けた「藍綬褒章」は「公衆の利益を興し成績著明なる者または公同の事務に勤勉し労効顕著なる者」に授与される褒章である。

秀雄の受章は長年にわたり電設資材流通事業を通じ建設業界の発展に貢献するとともに、日本電設工業協会をはじめ東京電設資材卸業協同組合および関東電線販売業者会など関係諸団体の役員として販売業界の発展に寄与された功績が認められたためであった。建設省所管で流通業者が褒章を受けるのは、異例のことといわれている。

なお、褒章のメダルは銀製で直径27mm、中央の「褒章」の文字を桜花紋が囲み、裏面には授与された人の位勲氏名が「賜」の下に刻まれている。


堀井秀雄、藍綬褒章受章

    堀井秀雄、藍綬褒章受章